根っこを掘り下げる

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私の根っこは、「集団行動に馴染めない」という私自身の性質にあります。

これは、生い立ちにかなり影響を受けていると思いますが、根本の原因は私にも分かりません。小学校に上がる前から、集団行動が苦手で、コミュニケーションの輪を作ることが出来ませんでした。3人以上が集まった時に働く心理は、「他の2人が居ればコミュニケーションは成立し、私は必要がない」というものです。自分自身を必要のない存在だと思っているのです。何の特徴もなく、面白い話のひとつも出来ない私は、必要だと思われていない。だから、私がその場に居ても、意味がないと考えていました。小学校、子供会、中学校、高校、予備校、専門学校、大学、アルバイト先、あらゆる集団行動を要する場が嫌いでした。

そして、その性質は、今現在も続いています。家庭を持ち、正社員として働き出し、自分自身の存在意義を多少は感じるようになりました。しかし、家庭や職場以外の場で、多くの人間が集まると、「必要のない存在」との意識が頭の中を占めてしまいます。だから、3人以上集まる場では、発言を求められない限り話をしません。

私は、一方で、自分自身が中心となって企画・進行する組織やイベントが好きです。なぜなら、この時、私が「必要のある存在」になるからです。こうして、20代でセルフヘルプグループの代表をしたり、会社でイベント等を企画するに至っているのです。これは、私が孤独を感じないための術なのです。

昨年の5月、私は会社で、お客様との電話対応を一手に担う部署で責任者を任されていました。自らも一日に何十本と受電し、見積りを発信しながら、部署の10余名を管理していました。会社の業務上、毎日クレームが発生し、社内では人間関係に悩み、起きている時も寝ている時も仕事のことで頭が一杯で、地獄の日々でした。家族に迷惑を掛けない死に方も考えました。

そんなある日、上司を会議室に呼び、全てを打ち明けました。会社を今すぐに辞めたいこと、死のうとも考えたこと、そして、こんな私が存在することで会社や家族に迷惑を掛けていると思っていること。その結果、上司の勧めで15年間まじめに働いた会社を長期休職することになりました。

結果的に2週間の休みとなりました。意外に短かったのは、休むことの罪悪感と必要とされていない不安もありましたが、クレームや人間関係の重荷が取れたのと同時に、これまでの人生を振り返る時間を持てたからでした。何もすることのない余りある時間の中で、これまでの人生を振り返ったのです。

「私は何のために生きているのだろうか」

悩みを抱えながらも、子供の頃、20代の頃は、未来は必ず良くなると信じていました。私には無限の可能性があり、いつか花開かせると思うことが、私自身を救っていたのです。ところが、社会人になって15年が経過し、いつしか、生きるためにはこうするしかないと思い込むようになったのです。

でも、これは、家族の生活を犠牲にして会社を辞め、死にたいとさえ思った事実と引き替えに選択すべき人生でしょうか。

私は、この時、明確に「違う」と思いました。たった一度の人生は、自分の思うように歩むべきだと思ったのです。仮に、雇われる人間が半ば組織の言いなりになり、賃金のために人生の大半を費やさなければならないのであれば、異を唱えなければなりません。それを、この経験が教えてくれたのです。

40年間抱えていた根っこの部分も、あきらめていました。人生は、妥協とあきらめが大切で、大多数の人たちがそれぞれの悩みを持っていながら、そうして生きている。だから、私もそうするしかない。このまま、人生を全うすると考えていたのです。

しかし、私の転換点は、やって来たのです。全てを振り出しに戻し、これまでを疑い、一から組み立ててみよう。昨年の6月に、漠然と思い、数ヶ月後にある出会いがありました。「根っこを掘り下げる」ことに共鳴し、このタイミングで出会えたことに、運命さえも感じました。

私は、この1年で、私を救うプロジェクトを進めようと思います。同時に、私と同じように生きにくさを感じている人間が存在するのであれば、これも解決したい。その志を高く保ちたい。そのために、今出来ることは何なのか。行動しながら、じっくりと自分自身と向き合う1年(気が付けばあと半年)にしたいと思います。

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